vol.27 2003年 1月21日  『大地の素顔に出会う瞬間』
 1993年の12月にNHK-BSにて『メキシコ横断紀行』<爆走1700キロ〜バハカルフォルニア半島>として放送された旅のエッセイです。あまりにたくさんのことがありすぎて、ちっともまとまっていないのが可笑しい・・・。大地の素晴らしさは勿論ですが、スタッフの逞しさに惚れたり、珍道中が楽しかったり、とにかくよい旅でした。実は身体の具合が絶不調の時で、顔の皮膚がべろべろ剥けており、カメラマンの方も苦労したのではと思います。海の魅力にも改めて気づき、このあとすぐにダイビングのCカードを取りました。ひとつ前のエッセイに通じるという訳です。旅はいいなあ〜。出逢いはいいなあ〜。それらが過ぎ去って思い出に変わっていくのもいいなあ〜。

『大地の素顔に出会う瞬間』  月刊サンパワー(社団法人倫理研究所)  1993年

 私の頭は、今、ラテンに染まっている。『ブエノスディアス、アミーゴ!』 『とにかくムイビエン(すんごく良い)!』 海外から帰ってきた時は、たいていその国にズッポリのめり込んでしまう私ではあるが、ここまで気に入ってしまったのも珍しい。アフリカ、イタリアに続く大好きランド、それはメキシコであった。メキシコとひとくちに言っても広く、私が今回三週間ほど滞在したのは、西海岸沿いに象の鼻のように伸びているバハカルフォルニア半島。米国のロスアンジェルスの下(南)が、サンディエゴで、そのすぐ下のティファナという町に国境がある。そこから先端のカボサンルーカスまで二百二十五CCのバイクで縦断したのだが、距離にして約二千キロ。日本列島をちょっとスリムにしたような半島だ。緯度でいうと、ティファナが九州の鹿児島あたり、そしてカボサンルーカスが台湾あたりとなる。暖かいというより暑く、海洋性沙漠気候ということもあって、半島のほとんどの植物が、サボテンだ。実はこの半島、ライダーの間では、エンデューロレースの舞台として良く知られている。二十数時間で半島のオフロードを縦走する『バハ1000マイル』(主催アメリカ)は、日本人の出場者も実に多いのである。私の訪れた時期は、ちょうど出場者の練習真っ最中。激しい走りが見れるかなあと思っていたが、コースが離れていたので、結局誰にも遭えなかった。私は国道メインのツーリング。彼らは競技。よく考えたらそりゃそうだわいな。

バハをヤマハのセロー225で走る。何処までも続くサボテンに魅了された。

 アフリカを旅で回ると、『ええ〜っ、こんなところだったの?』と、競技中では見えない表情に驚かされることばかりなのだが、今回のバハもしかり。当たり前だけど、雑誌で見ていたのは、ほんの一部分だった。不毛の沙漠だと思っていた大地には、人々が住み、トマト畑が広がり、ランチョ(牧場)が続いている。その人々の優しさや、動物たちの性格のよさといったら、ホントに涙が出て来てしまうほど。
 いろんな人に逢った。祈りの踊りを見せてもらったネイティブ(先住民族)の集落では、音頭をとるパオリーナおばさんが、私の母にそっくりだった。カルフォルニア湾でイルカの群れをウオッチングしに船を出してもらう。それを案内してくれたドクターの一家は、バハ版『大草原の小さな家』そのもの。彼らの住むロサンヘルスという小さな町は、夜十時になると電気は一斉に消えてしまうのだが、誰ひとりとして騒ぐ者はいない。満天の星たちを仰ぎながら、街の明かりのため三つ四つしか星の見えない東京の我が家を思い出す。ホテルやガソリンスタンドのメキシカンも、どこまでも親切だった。同行の車が壊れたので、飛び込んだ警察署の警官は、俺はパトカーのメカニックだからといって、油まみれになって直してくれたっけ。

イルカを見にいったのに全然いない・・・。いたのはひょうきんなアシカの群でした。

 今回は、TV番組収録の為の旅である。ともすれば感動薄れやすい状況にありながら全く影響なく自分の旅ができたのは、バハに住む全ての人、そして自然のお陰である。食べ物は期待できないよと言われつつも、へっちゃらだったのは、トルティージャ(小麦粉やトウモロコシの粉を練って、ぺらぺらにして焼いた主食)と辛いサルサソースとタコスと豆とビールがいたく口に合ったから。小さな町で、流しの唄う『バイヤコンディアス』を耳にして感動しない人がいたら、会ってみたい。さてはてそんな素晴らしい世界旅行だったのだが、不満がなかった訳じゃない。せっかく自然豊かなところでありながら、宿泊がホテルのみだったのはちょっぴり残念。これはディレクターが、カメラマンや出演者を始めとするスタッフの疲労を考えてのこと。ハードな撮影をしながら一日三百から多いときには数百キロの移動だったので、当然といえば当然なのだが、私しゃ野宿がしたかった!アメリカからバカンスでやってくる旅行者は、若者→自転車かボロボロの車で野宿、熟年→モーターホームでキャンプ、お金持ちのリタイア夫婦→ホテル泊と相場が決まっている。私は、若者だ。せめて一泊だけでもできたらな、と思っていた。と、思いがけない時に思いがけないカタチで、それは実現した。人間、念力だなとつくづく感じ入った次第。

ミュラ、ムラ、ムンラ・・・発音がとっても難しいお馬さん。ロバと馬を掛け合わせたそうで、大人しかった。

 それは、三十七キロの激しいダートを走った所にあるサンフランシスコという町での事だった。標高一千二百メートルの高地で放牧をし、ヤギのチーズを作りながら、十四世帯が暮らしている。馬にロバを掛け合わせたミュラ(MRA)やロバもたくさんいて、住人は、一見してカウボーイ。十六人もの小学生が元気よく飛び回っている。若い女性も多い。電気は無く、トイレもない(そのへんのサボテンを避けながらしてね、と指導される)。中学生は、往復四時間かけて下の町へ通うそうだ。けれどバハのどこの町よりも、私はここに『平和』を感じたのだった。 願いが叶ったのは、ここではなく、ミュラに乗って山を下ったところにある谷間の河原だ。二行で書くとなんてことないが、そりゃ凄い行軍だった。そもそも谷間へ行ったのは、壮大な古代壁画を見るためである。村のカウボーイ二人が案内してくれたのだが、『行きに五時間、壁画まで歩いて往復一時間、帰りに六時間かかるから、キャンプしないと無理だ』という。観光客が来るときは、道具を用意して、いつも谷間で夜を明かすのに・・・と、腑に落ちない様子。けれど我々には時間がない。撮影のつらいところだが、その日のうちに村に戻らなければならなかった。しかし悪い予感は、スタッフ七人がミュラに跨がり、歩き初めてすぐに漂い始めた。ほとんどが馬の素人だったのに加えて、道がどんどん悪路となって行くのだ。小柄で性格のおとなしいミュラは、何もしなくても勝手に進んでくれる。が、この路は何なのだ!人間が歩くのも困難な急勾配。石はゴロゴロと動き、一歩間違えれば奈落の底。こんなところを馬が行けるなんて、目の当たりにしていても信じられない。一メートルもある岩の落差を越えるときは、さすがに脅えるミュラを励ますため、あるいは自分の恐怖を軽減させるために『せ〜のぉ、』と声が出る。当然辺りはサボテンだらけで、機材を抱えたカメラマンは、一センチも食い込むような針が、腕や足首にブスブスと刺さっていた。私は長袖、そしてジーパンの下にプラスチックパッドを巻いていたので、かろうじて生き延びたのだった。
 案内のルドルフォおじさん(五十六歳)は、私の後ろでずっと口笛を吹いている。カウボーイ仲間に伝わる歌だろうか。汗びっしょりになって頑張るミュラを励ますためのように聞こえ、私も相棒のデランテのために口笛を吹き続けた。休憩の旅に顔や足に刺さった刺を抜いてやると、何となく嬉しそう。厳しいが、楽しい八時間だった。

たどりついた絶壁の秘境。ここに太古の鯨の絵画がある。世界中に似ている絵があるのがなんとも不思議?

 壁画を見て谷間のミュラたちの所へ戻ると、すでに夕刻だった。今来た路を夜間に戻ることが出来ないのは、明らかだったが、キャンプの用意はない。昼食用に持って来たカップラーメンとパンが少しあるだけだ。誰もがそれだけは避けたかったコト。『しよう、しよう』と無責任に提案していたのは、私だけだった。ディレクターが野宿を決断したとき、私は心で万歳と叫んだ。 しかし、海外に慣れたスタッフというのは逞しいもので、そうと決まったら、シュロの葉で焚き火を起こす、僅かに流れる川の水を沸かして、飲料水を作る、と鮮やかなもの。鞍に敷いてあった毛布(シュラフがわり)にダニがいようと、焚き火を一メートル離れると襲って来る蚊の群れにノイローゼになろうとも、寒くても、ブータレない。私はシュロ拾いに朝まで奔走したのだった。ああ、やっぱり野宿は楽しい!が、やはり歳だろうか、ガイドを含めて九人全員、村に戻ると完全な廃人と化していた。当然、その日の撮影はナシ。私は大好きなサンフランシスコの村に少しでも長く居れることが、嬉しかった。ミュラは今まで乗ったどの馬よりも可愛く、なんだかここに住みたいとさえ思う。それからの道中は、思い出のサンフランシスコに浸りつつ走った。悪魔の半島どころか、天使の大地だった、BAJA。故郷に帰るつもりで、また必ず来ようと思う。アスタラビスタ!(またね〜)



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