vol.23 2002年 3月 21日  バスと私の素敵な関係

 風呂を語ると、ほんとうに止まりません。昔の木桶の風呂にも深い思い出があるし、姉や父と入ったときの言葉も、湯煙とともに思い出せます。水が流してくれたことは、数限りなくあるような気がします。この文を書いたのはかなり前ですが、あれから変化したのは、木の風呂椅子を使うようになったことと、半身浴が限りなく好きになったことでしょうか。本を2冊ほど読みながら、1時間はいることもしばしば。それから最近の砂漠のラリーでは、毎日入れるような工夫がされているものが増えました。タンクから出される水は、昼間ならちょうどいい湯加減です。けれど、バイクで私がキャンプ地に着くころ(陽が傾いたころ!)に入ると、即、風邪ひきコース・・・。従って、以前とあまり変わらない状況です。
 これからまた風呂場をひとつ増やそうと思っているのですが、バリアフリーにしようとか、総檜にしようとか、考えるだけで嬉しくてニマニマ。ほんとうにお風呂って奥が深いですね〜っ!

『バスと私の素敵な関係』第3空間/1993年1

 『二兎を追う者は一兎を得ず』というけれど,私の場合ついつい『一石二鳥』を狙ってしまう。
 ツーリングは楽しいけれど,露天風呂にも浸かりたい。いい景色に出会えたけれど,いい人にも巡り会いたい。ラリーに出場するなら,成績も欲しいけれど,ココロの宝物も拾いたい。・・・欲張りのしわ寄せは,まま来ることもあるけれど,夢と期待は大きい方が断然楽しい。
 その一石二鳥精神で旅していたからか,地球のあちこちで面白いもの,人々との出会いがあった。お風呂?まかせてくださいまし。日本列島からアフリカの大地まで,入ったお湯は,二千や三千じゃ下らない。桜前線ならぬ温泉ラインに沿って日本一周ツーリングした物好きとは,なにを隠そうこの私のことでござい。
 と,なんだか寅さんの口上のようだが,冗談ではなくて旅におけるお風呂の役割というのは,実に大きくそして重い。どんなに心身ともに疲れていても,翌日は元気もりもりの怖いもの無しにしてくれるのだから,入らずにはいられない。
 うるさいことはいいたくないが,できればどっかぁーんと大きなお風呂が私は好きだ。 北海道は知床にあるカムイワッカ滝の露天風呂が自分ちの庭にあったらと,何度思ったことだろう。深い森と抜けるような大空。絶景をつまみに岩壷の湯に浸れば,頭の中もスポンと抜ける。標高千五百メートル,白馬岳山麓に湧き出る蓮華温泉の湯もまたしかり。いずれも,身体に鞭打って辿り着くという行程のお陰でか,実によく効く。そして,人間(猿も浸かるが)に生まれてきたことを心底シアワセに思う。日本って,なぁんてスバラシイところなんだと感動してしまう。
 風情ある温泉宿の内湯や,大漁宴の唄が思わず出てくるようなホテルの大浴場も好きである。ただし当方,限りなく小綺麗でなくては困るので,点数が辛い。隅っこの方にゴミやアカがたまっていたりすると,それだけでがぐんと評価が下がってしまう。
 泥まみれのモトクロスと,野宿三昧の日々を送っていた私の言葉とは思えないが,実はそこが弱点。何故か知らねど,バス・トイレが汚れていると,塩をかけられたナメクジのように縮んでしまう。寝たくなるよなバスルーム,嘗めてもいいよなトイレは,私の永遠の憧れだ。だから,少しでも汚れていると逃げ出したくなる。が,そのくせどうにも我慢ができなり,ついついお掃除なぞをしてしまう。あげくの果てに,せっかく暖まった身体がひえひえになるので,汚いお風呂はキライ。 最近になって私のこの性格は,母親ゆずりだということがなんとなく分かってきた。尋常じゃないほど綺麗好きな母。彼女が一番磨きまくっていたのは,バス・トイレだった。げに血は恐ろしい。
 恐ろしいといえば,数年前のカルチャーショック。風呂場における私の行為が普通じゃない,と断固指摘されたことは,三十年余りのバスライフが根底から覆される感じだった。一緒に伊豆の温泉に入った女性ライダーが,「立って身体を洗うなんて,信じられない。そんな人,聞いたことも見たこともない」と言うのだ。なにしろ私は,風呂場のイスに腰掛けたという経験が,あまりない。頭のてっぺんから爪先まで,すっくと立ってコトを行う。もちろん混んでいる時は跳ねを気にして正座するけれど,ガランとしてきたら立ち作業に変身。色気も何もあったもんじゃないが,結構気持ちいいものである。当然我が家の風呂場にイスはないが,夫から不満の声が上がらないところをみると,彼も同じ人種なのかもしれない。
 さてはてこんな私であるが,海外ではそれほど浮き立だない。シャワーだけのホテルはザラだけれど,カーテンさえあれば立ちグセも問題はない。バスタブに浸かりにくいのが少々難ではあるが,それぞれの国にはそれぞれの事情。その習慣を楽しんでこそ旅なのだ。 ところで,旅とはちょっと異なるが,アフリカで開催される砂漠のラリーで垣間見たお風呂は,実に興味深かった。
 塩交易の重要な拠点,ニジェールのアガデスは,二十日前後をかけて行われるパリ・ダカールラリーの中間点にあたるため休息地となる。十日間もお風呂に入っていない選手達にとっては,まさにオアシスそのもの。ホテルは三軒しかないので,日干し煉瓦で造られた民家に千人近くがお邪魔することになる。 一九八九年に私が休ませてもらったアダモ一族の家は,他のほとんどの家と同じように風呂場は無かった。もちろん立派な設備を整えたお屋敷もある。だが,ここは水も豊富な砂漠の町。日中,陽の高いうちに,瓶に溜めた水で行水できるので問題ないと言う訳だ。 町はずれにある水のシャワー小屋よりも,蚊に悩まされるホテルの温水よりも,青空のカラスの行水は気持ちよかった。「俺はどうしてもお湯が浴びたいんだ!」と主張したフランスのカメラマンは,三畳ほどの土のトイレをバスと決め,台所で沸かしたお湯をどんどん持って来てもらい被っていたが,あんまり具合は良くなかったようだ。
 アガデスですっかり野性化した私は,その後,ギニアの川で水を浴びただけでゴールのダカールまでラリー一行を追いかけて行った。すでにリタイアをしていたので,厳しい競技中にもかかわらず,なんとなく悠長。
 同じアフリカの競技で,もっと優雅なのはエジプトのファラオラリー。十一日間で五日もお風呂には入れる。そのファラオラリーで印象深かったのは,ピラミッドを出発して二日目のファラフラのキャンプ場だ。リビアに近い砂丘のオアシスにこんこんと沸き出る露店風呂は,あのクレオパトラも好んだとかで,大賑わい。満天の夜空の下での入浴は混雑ゆえに断念して,翌朝,顔を洗いに行ってみると,な,なんということ。信じられない量の垢が,べっとりこ。暗闇で入ったら,五百人の垢でシャンプーするとこであった。
 変な出会いと発見もあるけれど,すべて皆楽し。これからも私は『一石二鳥』で味とお湯のある旅を続けようと思っている。



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