vol.21 2002年 2月 12日  アフリカの子供達が教えてくれたこと

 あそこはよくて、ここは駄目。一概にそう決めつけることは出来ません。けれど何度行っても、私は人間の原点をアフリカに感じてしまいます。アフリカというより自然と共に生活がある国でしょうか。気がつけばすぐに必要としない多くのモノに囲まれ、身動き出来ないしがらみや約束にふうふう言っている自分がいます。自由人と言ってはばからない私ですらそうなのです。生きるとは、もっと(ココロが)軽くて、もっと(絆が)重いコト。そんなことを再確認するために、私はあの大地に向かうのだと思います。

『保育の友』(全国社会福祉協議会出版部)1998年10月号

 

 何年か前、ある新聞に掲載されていた小さな記事が楽しみでたまりませんでした。世界中の子供のあどけない笑顔の写真と共に、気の利いたコメントが載せてあり、何度も何度も読み返してはニンマリ。今でもそのはにかんだ表情を思い描くことができるのですから、そうとう印象深い子供たちだったと思います。
 子供に教えられることはしょっ中ありますが、やはり印象的だったのはアフリカでの出会いです。一九八九年に行われた『パリ・ダカールラリー』にバイクで出場したものの、サハラ砂漠であっけなくリタイアした私は、ゴール地点のダカールを目指し、一万キロ近くを独りで旅をしました。リタイアした者は、自分で帰路につかねばなりません。すぐ帰国してもよかったのですが、初めてリタイアした虚脱感と未消化感で、その地から外れることが出来なかったのです。

 チュニジア、ニジェール、マリ、ギニア、セネガルと、地元のにわかタクシーやラリーの関係者の車に乗せてもらったりしながら、なんとか道を辿ることが出来ました。砂丘の連なるサハラ、その中の小さなオアシスに天使はいました。地元の言葉を解せぬ私ですが、笑顔で近づいてくる子供たちとの会話は弾みました。ボロボロの服をまとい、「何か食べ物ちょうだい」と言っていた子も、私が何も持っていないと分かると、話は普通の会話になります。まったく人家のない砂丘の向こうからやって来て、まるで妹のようになついて離れない少女もいました。たくさんの子供と会話をし、笑顔を交わしました。いずれも物質的には皆無に近いような状況の子です。今の日本では考えられない生活状況といっていいかもしれません。しかし幾つかの集落でしばしの時間を過ごした私の目には、至極豊かに彼らは映りました。「生きている目って、こうなんだ」。この時、日本はバブル絶頂期。何かを見失い、曇った私の目に映る彼らの瞳は、それはそれはパワーに満ち溢れ、子供らしい好奇心の塊で輝いていました。私はいっぺんでアフリカの子供たちの虜になってしまいました。「カドゥ(何かお土産頂戴)」と迫られても、可愛くてたまりません。「よ〜し、もっと素直に自分らしく生きてみよう」と思えたのも、実は彼らのお陰でした。

 そして日本に戻ってきたのですが、成田空港を降り立った私は唖然としました。そこで出会う日本の子供たちの目は、なんだか淀んでいるように感じたのです。元気がない。覇気がない。生命力が感じられない。皆が皆という訳ではありませんが、その数は多く、私はこれは何なのだろうとずいぶん悩みました。町を歩けば幼稚園児が、道端に置かれた植木を片っ端から蹴飛ばして歩いていました。栄養価の高いものを食べ続けているせいでしょうか、成人病のような症状の子供も多いと聞きます。安全に便利にもっと豊かにと進んできた先進諸国の矛盾は増える一方です。しかし、日々の糧に追われているかに見えるアフリカの子供たちは、兄弟や友達と山羊を追い、ゆっくりと流れる一日を味わっていました。たくさん自然と接し、人と会話をし、人間として必要なことを享受していたように思えます。その村の女性に順番に抱かれ育てられていた農村の子供は、きっと安心感の中で大きくなることでしょう。人間回帰が叫ばれる今、日本でもイキイキした子供が増えてきたように思いますが、課題はまだまだ多いように思えます。
 とにかくあの旅以来、私はモノに翻弄されることがなくなりました。けれど生きるということが曇り始めると、何故かまたアフリカの大地に立っています。人生の指南役はあのアフリカの子供たち、そう言っても過言ではありません。もう二度と会うことはないかもしれない彼らの幸せと、そして世界中の子供たちの未来が明るいようにと祈らずにはいられない私です。

 



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