vol.18 2002年 1月 29日  とうとうこの日がやってきた

勉強ってなんて楽しいのかしら、と思い始めたのは、20代に入ってからです。なんという皮肉でしょう。けれど遅いということなどこの世にはないと信じて疑わない私は、ひたすら腰があがるのを待つのみです。そして大好きなフレンチ三昧の日々に突入です。びっくりしたのは、その後私が学んでいたNHKのフランス語講座からテレビの出演以来が来たことです!しかもミシェルと国際電話で生中継するというではないですか。私はもうどきどきでその日を迎えました。浴衣も新調し、そこで教えてもらった言い方をそっくりまねっこし、これで完璧だあと構えていました。ところがミシェルときたら、約束と全然違う質問するのです!なんてヤツ〜!私はしどろもどろ、でも楽しい体験でした。移動時間のすべてがフランス語浸けだった懐かしいあの頃・・・そう、今はさぼりんちょの日々です。でもフランスに住みたいのは今だ変わりません。

エッセイスター第17弾  「学遊園」編集・株式会社栗原研究室 1999年10月号
生涯学習に思う
 
                   

フランスは何処を歩いても何故か落ち着くワタシ。著書「砂と風とレイコ」の写真撮影でのひとコマ。

 12年間悩んでいたことを、今打ち破ろうとしている。『パリ・ダカール』などの海外ラリーを始めてから、やろうと思いつつ二の足を踏んでいたもの。それは仏語の勉強である。私の出場するラリーは殆どがフランス主催なので、当然すべてのインフォメーションは仏語だ。初めて覚えた言葉は自分のゼッケン番号だったが、何年たっても大して進歩がない。それは幸か不幸か私の廻りには、いつも通訳もどき才能を持った輩がいたからである。ラリーパートナーでもある夫は「やさしい○○語入門」などを一冊読むと、どの国でも結構通じてしまう天才で、私はその陰に隠れていれば良かった。だが恵まれ過ぎて、語学恐怖症になりかかっていた。
 実は私は、昔から耳に心地よい仏語が好きだった。中学時代は、歌手のミッシェル・ポルナレフに熱をあげ、いつかは彼と結婚するのだと願っていた(プレスリーも好きで、同じことを言っていたけど)。とまれ、ラリーは専門用語で成り立つこともあって、今まで困ることが少なかったのだが、会話が大好きな私は、喋って語り明かしたい病にかかっていた。思想、文化、流行、生き方、他愛ない茶呑み話でもいいから、知り合った人と色んな話をしたかった。アフリカのラリーで通過する様々な国々の子供たち(仏語)とも喋りたいが、目を見つめて心を通わせるのみ。寂しいし、情けなかった。

パリダカの創始者テリー・ザビーヌの恋人だったスザンヌとは、一度砂漠をキャラバンしたことがあります。パリにある彼女のオフィス近くにて。

 改心のきっかけは、今年、カメラを抱えて報道人の立場でラリー参加したことだった。仏語しか解さないフランス人のおじさん2人(実は超のつくベテラン)と共にプレスカーで1万キロを走ったのだが、これが無茶苦茶楽しかったのである。車内は徐々に「走る語学教室」となり、日、仏、英が飛び交う不思議な旅となった。目の前にある物の発音から始まって、最後は単語を並べて「私の夢はね」なんていう会話も実現。楽しいじゃないか!彼らも「仏語だけでいいと思っていたけど、僕達も勉強するよ。ただし日本語は難しいから、皆で意志が通じる英語ね」と変わっていった。1日3時間の睡眠×18日間という厳しい状況だったからこそ、日仏友好の花が咲いたのかもしれない。
 そして、すっかりその気になって帰国した私だが、フランス留学も考えたものの、結局NHKのラジオ&テレビ仏語講座で学んでいる。ただそれだけなのに、今まで自分がカタコト覚えた単語が決して無駄ではなかったこと、反対にいかにいい加減に理解していたかなどが判明した。「ほお〜っ」とか「どひゃ〜っ」とか、とにかくエキサイティングな学習が続いている。きっと私が大学に入って仏語を学んでいても、こんなに燃えなかったと思う。物事はすべてタイミング。やろうと思った時が旬なのだ。目標は、あのラリー現場で、仏語で宇宙真理を語り明かすこと。そしてフランス人と対等に喧嘩できることだ。ふふふっ、今に見ていなさ〜い!


写真提供 安友康博(安友写真事務所)



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