vol.11 2002年 1月 17日  泥団子はかく語りき

幼少のころの思い出は、今でも鮮明に蘇ってきます。とくに、すべてのものを一番吸収する年代に対馬にいたことは、宝そのもの。裏山で木にのぼり、大きな牛の糞に脚を突っ込み、川で遊びまくり、夕日に向かってどこまでも走っていました。「ああ、むちゃくちゃ楽しかったー」と思えるなんて、これ以上の幸福はないですよね。転勤なので意識はしてなかったと思いますが、環境はまさに親からのプレゼントです。
この「るびんにい」は、東京銀座の三笠会館のPR誌で、<遊びと遊び>というタイトルで、二編でなりたっています。最初は<こども時代>。末っ子なのでやんちゃに育った様子がなんとなく・・・・ね。

近所のガキンチョとどこへ行くのも一緒さ

エッセイスター第10弾  月刊「るびんにい」1999年9月号

 あの時代の誰もがそうだったように、野猿のように飛び回って、私は育った。親の仕事の関係で、全国津々浦々移動しながらだったが、何処でも自然だけは豊富にあり、遊びにはことかかなかった。それが今でも自慢であり、エネルギーの源でもある。

恐い物なんてなあ〜んにもナイ!

 一歳から五歳までを過ごした長崎県の対馬は、海と山と川が揃った天国だった。四人姉妹の末っ子である私は、姉たちと近所の子供たちに囲まれて、さまざまな遊びに没頭した。小川や山も駆け回ったが、一番覚えているのは、貯水池での冒険ごっこだ。四つほどに区切られたプールは、非常用なのか、たまにしか水がなかった。そして普段は、何故か底に砂がこんもり盛られてあった。かわりばんこに飛び降りるだけだが、なかなか勇気がいる遊びで、大人たちから禁止されていたこともあってスリル満点。幸い誰も怪我などしなかったが、実にわくわくする遊びだった。やはり"禁じられた遊び"の感があり、その後一九歳の時の日本一周ツーリング中に、そおっと訪ねてみた。そして、愕然。その貯水池は、ほんの一坪ほどの大きさで、深さは一メートルもなかったのだ。とにかく、幼い私の心に砂遊びの楽しさがインプットされたのは確かだ。二九歳からラリー三昧となった私の人生は、アフリカの砂漠なくしては語れなくなってしまったのだから。

 貯水池もただひたすら飛ぶだけだったが、幼稚園時代を過ごした埼玉県の熊谷では、ひたすら泥団子作りに精をだした。それはもう職人の世界。よい土を見つけて、水を含ませながら手の平で直径三センチほどの球体に整えていくのだが、仕上げの磨きには何時間も費やした。大きさよりも球体の美しさが求められたが、いびつになったり、まっ黒に輝いて鉄のようにカチンカチンになって大成功と思ったらひび割れたりと、実に奥が深かった。完成度の高い芸術品でないと、「おお〜っ」と仲間を感動させることは出来ないので、幼稚園で作るだけでは物足りなく、家に帰ってからもせっせと作った記憶がある。会心の出来の団子が盗難にあったりして、子供の世界とは言え、いろんなことがあったっけ。

左上の入り江(比田勝)に住んでいた。素晴らしい環境の上対馬町

 何十個作ったか覚えていないが、最上級の出来は五つもなかったと思う。そしてその芸術団子も、ある日突然パカッと割れて命絶えるのである。たかが団子、されど団子。子供たちは一心に作った団子という生命を通して、作る喜び、持つ喜び、人を喜ばせる喜び、そして命のはかなさを学んだのだった。それは決して大人が奨励したものではなく、皆があちこちで猿の芋洗いのように始めた遊びだったが、飽きることはなかった。土ゆえに、今その作品を見ることはできないが、ピカピカに輝く見事な泥団子の姿は、鮮明に脳裏に焼きついている。あのモノ作りの姿勢は、人生すべての基本だったのではと、ふと思うことがある。何かに行き詰まった時、あの寝食忘れて没頭した感覚が蘇るのだ。人間、好きなことをあのパワーでやれば突き抜けられるハズ、と過去の自分が語りかけてくる。子供時代の遊びは侮れない。

 



Copyright 2001 Fairy Tale, Inc. All rights reserved.