vol.5 2002年 1月 5日 ★「山村レイコの自然にヤッホー♪」その2

2002年のパリ・ダカールラリーには、残念ながら出場できなかった私ですが、いつも心の何処かに砂漠があります。一度アフリカの水をのんだ者は・・・と言われるとおり、幾度も還ってしまいます。とにかく理屈抜きで好きなのです。エジプトに最初に足を踏み入れた1987年、「あっ、ここは懐かしいところだ」と自然に思いました。そんな大地で行われるラリー。なぜ競技なのか、なぜヨーロッパの人々との交流なのか、とても不思議に思いますが、今は「前世で出会った人たちと、再び学びあっているのではないか」な〜んて思っています。

エッセイスター第4弾
URC(株式会社スリーボンド広報誌) 1999年春号 85号
タイトル「山村レイコの自然にヤッホー〜♪」

ある日のゴール近く。10カ国ほどのプレス陣がずらり。

 「言う事とやる事が違う!」昔から人によく言われた言葉だ。本人にしてみれば、超スピードで考えが二転三転した末の行動なのだが、どうも狼少女的に映るらしい。そう、私はパリダカに行った。あれほど直感がどうのこうの言ってたのにね。
 実は今回は、プレス(報道陣)参加。友人のフランス人カメラマン、ミシェルのプレスカー(トヨタのランドクルーザー80)に同乗したのだ。思えば昨年12月、彼は夫を誘ったのだが、断っているのを横で聞き、「私じゃ駄目かしら!?」と思わず立候補。またもや直感だ。この時、死ぬほど行きたかった自分を発見した。選手としてはパワー不足でも、とにかく方法問わず、携わりたかったのだ。
 夫はかつてミシェルの車に同乗した事があるのだが、やはりベテランの耐久走りを体験したからか、翌年のパリダカで、始めてバイク完走。砂の走り方は勿論、先回りが宿命のプレス故、夜の砂丘にしばしば突入となるも、その感覚が理屈でなく役に立ったらしい。96回もパリダカを始めとするラリーに行き、一度もリタイアしたことがないミシェル。しかも毎日全員をカメラに収めるというオフィシャルなので、時間に余裕がなく追われて走るというのにも引かれた(?)。学ぼうトコトン!そう思ってナビ席に座ったのだった。

ミシェルのプレスカーは、トヨタのランドクルーザー。

 今年の『第21回グラナダ・ダカール』は、スペインからモロッコに渡り、モーリタニア、マリ、ブルキナ・ファソ、セネガルなどの国々を走る、九千キロ強のコース。大砂丘が少なく、石の多いガレ道に苦しむという辛いコース設定だったが、四割弱の選手がダカールの海岸に辿り着いた。いつものように激しい戦いが続く中、はたで見たパリダカは・・・無茶苦茶面白いものだった。何しろトップから這々の体で走ってくる最後の選手まで間近に見ることが出来る。息遣いが聞こえてきて、その時の体調が手に取るように分った。水をくれという選手。目の前で転倒する選手。暑いだろうな、身体言うこときかないだろうなと、自分の事のように思えてきて、大声で声援を送ってしまった。
 案の定、その写真ポイントまでが予想通り大変な道程で、平均睡眠時間は三時間だった。昨年四輪出場時が、一時間強。一昨年の二輪出場時が数時間ということを考えると、プレスも苛酷だ。しかも時速120キロで千キロノンストップ移動なんていうのが何回かあったが、彼らは実に淡々とこなしてしまう。大陸性機能なのだろうか。

夜中の移動中に夕食を。平均睡眠時間3、4時間!

 砂漠走りも今後の自分に大いに役立ったが、走りだけでなく、生活全てがプラスだった。旅の道連れは、ミシェルと彼の友人でワインを作っているマルクおじさん。チンプンカンプンのフランス語が飛び交っていたが、BGMとしては最高に耳に良くて、こりゃ本格的に習ってもっとラリーにのめり込もうかなと思うほど楽しかった。でも、十年間何やってたんだろ〜。ちなみに今回のナビはフランス語だが、共通のラリー用語なので問題ナシ。
 眠らず、食わずの野生行ではあったが、アフリカの豊かな自然と懐こい人々との交流は、やはり選手の時には味わえないほど濃かった。ある村では「マリのママと呼んで」と言われて嬉し涙も流した。大好きな草木や花の生態もバッチリ観察できた。主催者側の動きやサポートしている多くの人々のことも良く分かったし、とにかく全てが輝いてみえた。批判を受ける事もあるラリーだが、これならこの先もうまく地球とやっていけそうという感触を得て、ニッコリ。「よしっ!うどん屋の前に、もうちょっと選手やってみよう」と、狼少女は囁くのだった。 



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